コーヒーブレイク
「昼休みのベンチII」 第29回
『野外へ出よう!』(第29回) <2013年3月>
作詞:巽 聖歌、作曲:渡辺 茂 たきび かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき 「あたろうか」「あたろうよ」 きたかぜ ぴいぷう ふいている |
この童謡「たきび」の作詞家、巽聖歌(たつみ せいか 本名:野村七蔵)は、明治38年2月12日、岩手県(現・紫波町)に 7人兄弟の末っ子として生まれました。この歌は、昭和16年、JOAK(現在のNHK)ラジオ番組の依頼を受け、当時、暮らしていた東京都中野区上高田の風景をもとに、作詞したそうです。その後、まもなく、太平洋戦争が、激しくなり、たき火は、攻撃目標になる恐れがあることから禁止され、この歌もラジオでの放送もされなくなったそうです。しかし、人々の心の中には、いつまでも残り、現在まで、歌い継がれています。二番の歌詞に「しもやけ おててが もうかゆい」は、手が冷たいうちは、かゆくありませんが、たき火にあたって、手が温まってくると、かゆくなってくることを見事に表現しています。朝の登校時の子供たちの情景が目に浮かびます。
小正月(1月15日)が終わると、各地で、その年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼く左義長(さぎちょう、三毬杖)や、どんと焼きと呼ばれる火祭りが行われます。昔は、火鉢の灰を作るために、どの家庭でも、庭で、枯葉や空の炭俵、藁縄、そして、こっそり、見られたくない答案も焼いて、たき火をしました。それは、子供たちの仕事で、残り火で、サツマイモを焼いて、みんなで食べるのが楽しみでした。今は、たき火をする広さの庭もなくなり、ましてや、たき火は、煤煙で、周辺の住宅の洗濯物が汚れるということから、ほとんどの自治体で、禁止となりました。
そこで、大規模なたき火を見ることができる場所と言えば、関西では、その一つに、京都の阿含(あごん)の星まつり(2月11日京都 写真下)があります。阿含宗主催で、「炎の祭典・阿含の星まつり 神仏両界大柴燈護摩供」として京都府京都市山科区北花山大峰の 阿含宗本山境内地にて開催する護摩法要を用いた宗教行事です。
火祭りは、世界各地にあり、炎は、人の気持ちを高揚させ、すべてを焼きつくし、無に帰す。人々は、その刹那に、無常を感じ、祈りをささげる。拝火教を持ち出すまでもなく、炎は、神秘的なものです。仏壇にも、教会の祭壇にもロウソクの火は欠かせない。
ところで、冬は、バードウォチィングの絶好の季節です。今年も、我が家の庭にジョウビタキ(スズメ目・ツグミ科 写真左下)やメジロ(スズメ目メジロ科 写真右下)がよくやってきます。庭木の実や花を食べにくるようですが、それだけではないような気もします。
こちらからも、彼らを見に出かけることにしました。まず、近くの公園で、早速、見つけたのは、モズです(スズメ目モズ科 写真下)。やはり、冬の木枯らしの中のモズは、よく、似合います。このモズは、縮こまって精悍さは、見られませんが・・・。
高槻市を南北に横切る芥川(高槻市と京都府亀岡市との境をなす明神ヶ岳に源を発し、淀川に注ぐ)の堤防沿いに、上流を目指す。冬の芥川は、水量が少ないのにかかわらず、清流を保っているのは、周辺の住民や行政の努力が伺えます。シラサギ(コウノトリ目サギ科 写真下)は、白いので遠くからもすぐにわかります。日本には、18種類生息しており、3種(ダイサギ、チュウサギ、コサギ)が、よく見かけるようです。その見分け方ですが、ダイサギは、冬期にくちばしは黄色、目元も黄色、チュウサギは、くちばしは黄色で先端が黒、目元は黄色、コサギは、くちばしは黒色、目元は黄色とのことです。くちばしまで色が変わるとは、知りませんでした。どうも、写真のシラサギは、ダイサギ(写真左下)とコサギ(写真右下)のようですね。
カルガモ(カモ目カモ科 写真右下)も、芥川常在の鳥で、朝、9時、まだ、眠っている鳥も多い。
芥川の中州にアオサギ(コウノトリ目サギ科 写真左下)が、朝日を浴びていた。このあたりに巣を作ろうとしているのだろうか。近くでメスが抱卵しているのを見守っているのだろうか。
セグロセキレイ(スズメ目セキレイ科 写真右上)は、浅瀬を歩く姿をよく見かけます。セグロセキレイは、眼から頬・肩・背にかけて黒い部分がつながるところで、ハクセキレイと見分けることができますが、遠目からは、区別がつきませんね。ここなら、流れてくる餌を待ち受けておれば、楽?。回転ずしと同じでしょうか。
庭木の実や花を食べにくる小鳥たちは、餌の不足するこの季節、猛禽類から身を守るため、人の住む隠れ場所のような住宅街に逃げてきているのかもしれません。
*** お薦め書籍 ***
『日本奥地紀行』 イザベラ・バード著 高梨健吉 訳 平凡社 2000.2 |
明治11年6月から9月にかけて、約3か月間、東京から、東北、北海道までを英国人バード婦人が、日本人通訳一人とともに、個人で(学術調査)旅行した記録が事細かく当時の様子を西洋の文化人の視点で、書かれている。明治11年と言えば、5月に大久保利通が暗殺されており、東北以北では、まだ、新政府の体制が不十分で、旧幕府の体制が残っており、ましてや、北海道では、未開拓のままと思われる。交通機関と言えば、人力車や馬で、食糧や簡易ベッドなどの荷に乗せ、峠を越えていく。日本は、不衛生で、非常に貧しいが、勤勉に働き、物乞いはいない。礼儀正しく、チップは受け取らない。子供を宝のように大切にし、子供も素直である、女性の一人旅でも安全と、かつての日本人像を述べている。また、アイヌ人の部落で、数日、ともに生活し、アイヌ人は、未開人ではあるが、尊敬の念も抱いている点も見逃せない。
「明治維新」で、大きく社会体制は変わったが、日本人の心情は、少しも変わらなかった。すこしずつ、変わってきたは、昭和後半の経済成長からかもしれない。
(昼休みのベンチ)
2013年3月掲載
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