「昼休みのベンチII」 第18回

『野外へ出よう!』(第18回)  <2011年4月>

  「梅は咲いたが、桜はまだかいな」と例年だったらこの時期、日本中で、多くの人が、新たな人生をスタートする、不安の中にもこれからの新生活に期待を抱く光まぶしい時期だったのですが、日本全体が、わが国、戦後最大の危機、東日本大震災に見舞われています。

  被災の只中にいる方達に、一刻もはやく、安堵の時が訪れることを願っております。このような時、海外の被災地では、無法地帯となり、強奪が横行するのが常ですが、日本では、これまでの災害でも、いつも、そのような光景は見られず、悲しみと不安の中にも被災者、支援者、全員が忍耐と復興への努力を惜しまない姿を海外メディアは、信じがたいと、日本の律儀さを称賛しています。日本人の胸の奥にしっかりと根ざした「人としての品格の高さ」をあらためて知る機会となりました。郷土岩手の地を深く愛し、理想郷(イーハトヴ)と土とともに暮らした宮沢賢治を生んだこの風土ならではと、敬意を表します。

  この度も、宮沢賢治が病床の妹とし子との別れの詩「永訣の朝」と同様の光景が見られたのではないかと、胸が痛みます。

「けふのうちにとほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)」

(写真は早咲きの桜の花の蜜をすうヒヨドリ)
  宮澤賢治は明治29年8月27日、岩手県花巻市に生まれる。その誕生の2か月余前の6月15日夜7時32分頃、三陸沖200kmの海底でマグニチュード7.6の地震が発生、三陸大津波が起こり、岩手県だけで18158人の死者が出ました。そして、賢治の生後4日目の8月31日に陸羽大地震が起こり、全壊家屋5600戸、死者200人を出しています。そうした自然災害の頻発した悲劇の年に賢治は、生を受けています。奇しくも、賢治が亡くなった年、昭和8(1933)年3月3日午前2時30分頃、三陸沖の海底でマグニチュード8.1の地震が起こりました。それによる震害は少なかったようですが、やはり大津波による被害は大きく、被害者は岩手県内だけで約2千7百人、全体では3千1百人にのぼったと言われています。

  賢治はこうした地球の大自然の畏怖と民衆の幸福を思い、「農民芸術概論綱要」(青空文庫)序論で、下記のようなヒューマニズム、宗教観を述べています。

……われらはいっしょにこれから何を論ずるか……
おれたちはみな農民である ずゐぶん忙がしく仕事もつらい
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい
われらの古い師父たちの中にはさういふ人も応々あった
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である


  「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」、つまり、個人の意識を行動に表すことによって、その思いが集団に伝わり、やがて、社会を動かすという知的リーダーの教えを説いています。また、「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」この教えは、一般日本人(民衆)の律儀さになって世界が称賛している点でしょう。

  今回の大震災によって引き起こされた福島原発の事故においても、宮沢賢治の生き方を踏襲した脱原子力運動の中心人物であった高木仁三郎氏に触れないわけには行かないでしょう。東京大学理学部を卒業し、宇宙核化学の研究者となるが、原発推進のために多くの技術資料が非公開であり、現地の一般市民には知らされることなく、次々に地方に建設されていく原発推進の施策に疑問を感じて、大学を退職し、民間のシンクタンク原子力資料情報室を立ち上げました。その後も、スリーマイル島、チェルノブイリの事故を例に原発の安全性、技術の隠匿などに警鐘を鳴らしてきました。その行動は、宮沢賢治が稗貫農学校(現花巻農業高校)の教師を辞め、羅須地人協会を設立し、農業指導に専念したことに大きな影響を受けています。高木氏は「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という賢治の言葉に大きな衝撃を受けたとのことです。
今回の大震災に遭遇し、いま再び、この問いかけに、私たちは直面している訳です。

  この「われわれ」とは、当然、農民であり、一般市民であり、国民であり、人類ということです。私は、原発絶対反対論者ではありませんが、これまでの人類の負の遺産を乗り越え、開かれた中で原発技術開発を討議して頂きたいと思います。

  昨年、第13回の記事で6月に紹介した青サギの群れですが、昨年の取材の後、この場所は、集中豪雨で、水嵩が増し、この湿地の半分は水没しました。このせいで、来年は、来ないかもしれないと思っていました。
しかし、青サギは、今年もやってきていました。(3月13日)同じ場所で5つの番(つがい)が巣作りを始めました。

(H23年3月19日撮影)

   宮沢賢治の教え子たちの皆さんや私たち全国の支援者が、個人の意識を行動に表し、協力し合うことによって、やがて、水没、浸水した村落も復興するときが来るでしょう。
そして、大震災のこの年に、「宮沢賢治」の生まれ変わりの人が、この地イーハトヴから誕生することを願っております。

参考図書
1.  科学者としての宮沢賢治 斎藤文一 著  平凡社新書 
2. デクノボー宮沢賢治の叫び」 山折哲雄 / 吉田 司 著 朝日新聞出版
3.  「市民科学者として生きる」 高木仁三郎 著  岩波新書

***  お薦め書籍  ***

 『市民科学者として生きる
   高木 仁三郎 著 岩波書店 1999.9

  「市民科学者として生きる」 高木仁三郎 著  岩波新書 1999.9
本文中にも取り上げましたこの本は、著者の活動の軌跡であり、遺言書です。癌との闘病生活を送る病院のベッド上で、痛みと余命の中で、わずか2ヶ月で書きあげられました。翌年の2000年10月に62歳で、亡くなっています。「研究のための研究であってはならない」科学者として、市民として、どう行動すべきかを、「大学人」の限界を感じ、宮沢賢治の生き方に感化を受け、自ら在野に下り、実践することで示しました。
著者の最後のメッセージを参考までに挙げておきます。

(昼休みのベンチ)
2011年4月掲載

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